優れた映画とはどんな映画だろう。
答えはもちろん、人の数だけあっていい。私にとっての優れた映画とは、スクリーンと向き合う前後でこの世界の見え方が少しだけ違ってみえる、そんな作品。
『ダラス・バイヤーズクラブ』について語ろう。
主人公は、酒と女、ロデオを愛するテキサスのカウボーイ。ある日突然エイズと診断され、余命30日の宣告を受ける。当時、アメリカ国内では正式に認可されたHIV感染/エイズの治療薬はなく、AZTという新薬の治験が開始されたばかりだった。彼は当初、なんとかして治験用のAZTを入手しようと画策するが、結局のところ薬の供給は途絶え、最後の手段として国境をまたぎメキシコへ向かう。そこで未認可薬(ペプタイドT)と出会い体調を回復した彼は、トランクいっぱいの薬を買い込んでアメリカへと舞い戻り、HIV感染者向けの「バイヤーズクラブ」を始める。がしかし、その動きは法規制の網にかかり、彼はFDAとの全面対決を余儀なくされる…
これはフィクションじゃない、本当にあった話だ。
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主人公は典型的な南部の白人であり、同性愛者を毛嫌いしている。そんな彼がエイズに罹患することで、必然的に彼らの世界へと巻き込まれていく。この映画はセクシャルマイノリティへの偏見の克服を主題にした作品とも言えるかもしれない。
しかし本作のユニークさは、巧妙に描かれたもう一つのモチーフにある。作中、主人公が通院する大病院でAZTの臨床試験が始まるが、そのプロセスは興味深い。
抗がん剤として開発されたAZTを、抗ウイルス薬に「転用」する。本来再度行うべき、動物での安全性試験はスキップされる。製薬会社は、1年以内という急ピッチでの販売開始を目論み、成果を速やかに出す為に、高用量での臨床試験をデザインする。その結果、患者の多くが貧血、白血球減少など、AZTの副作用で死んでいく。
それを、試験に携わる医者は、見ないふりをする。どうせこいつらは先が長くないのだから、と。そうやって速やかに認可されたAZTは市場を独占、法外な値段で売り出される一方で(※)、主人公が海外から輸入した安価で安全な未承認薬は、片っ端から没収されていく。
彼は叫ぶ。『俺の薬が没収されるのは、コイツらに金を掴ませてないからだ!』と。
FDA、製薬会社、そして病院。現代の医産複合体の原罪を、この作品は告発している。
※ 日本と異なり、アメリカでは製薬会社が薬価を決めることができる。そのためアメリカの薬価は他国と比較し非常に高く設定されていることが多い。
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この映画で未認可薬として描かれているのはペプタイドTというタンパク質だが、これを医療大麻に置き換えてみると、日本の現状に極めて近似している。そしてまた大麻も、エイズ患者にとって福音となり得る薬剤だ。
エイズに対する大麻の有用性が広まったのは、一件の逮捕がきっかけだった。
血友病に対する輸血が原因でHIVに感染したフロリダのジェンクス夫妻は、原疾患とAZTによる吐気と食欲不信に悩まされていた。彼らの状況を救ったのは、医療大麻だった。使用を開始してから食欲は改善し、それから1年間はごく普通の生活を送る事ができた。
しかし、1990年のある朝、夫婦の平穏は文字通り破られる。武装した麻薬取締官が自宅のドアを蹴破り、彼らは大麻の栽培の罪で逮捕された。禁錮5年という求刑に対して、夫妻は裁判所で不服を申し立てる。一旦は有罪が宣告されるも、上級裁判所での逆転勝訴を得て、彼らは公式な医療大麻の供給を受けられるようになった。この闘争は全米の注目を集め、同じ境遇にある患者を大麻草の医療効果に開眼させる結果になった。
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その後、アングラの世界での使用のみならず、医学研究においてもエイズに対する大麻の有効性は報告され続けている。エイズの進行に伴い神経痛が出現するが、その痛みに対して大麻がよく効くことが患者の間で噂になり、今日では臨床試験で有用性が確認されているのだ。また大麻はエイズ患者の食欲を回復させ、気分の落ち込みを緩和してくれるという。
さらに驚くべきことに、大麻にはウイルス量自体を抑える作用が期待されている。コホート研究で、大麻のヘビーユーザーでは明らかにHIVウイルスの量が少なかったと報告されているのである。
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AZTとペプタイドT、そして医療大麻。いずれも効果が期待されながら、一方は強力な力で担ぎ上げられ、もう一方は同じ力に抑圧される。双方を隔てるのは資本の原理に他ならないことを、この作品は教えてくれる。それはある意味、仕方がないのかもしれない。巨大なシステムの前に、個人は等しく無力だ。
しかし、そんなシステムに対して果敢に闘いを挑んだ一人のカウボーイが実在したことを。彼が感じた真っ白な怒りを。
私たちは忘れてはいけないだろう。
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